『 ようやく、ドライブ・マイ・カー。』

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放映のタイミングに見逃してしまった僕と同じ境遇の人が多いのだろう。映画賞受賞後の再映で駆け込む観客が多く、シアターは満席だった。

「ドライブ・マイ・カー」はシンプルに良い作品だった。カメラワークに気合が入っていて、どのカットも気迫のある構図と動きだった。数年前に原作を読んでいたので、だいたいの物語の筋は覚えていたが、映画版は小説版とは違うオリジナルな設定も追加や変更をされていた。(短編小説を3時間の映画に膨らませているので当たり前か。)

妻を失った後に主人公が、車中で台詞暗記用のテープ(妻が朗読している)を聴いている光景がとてもしんどかった。大切な人を亡くしたときを想像した時、大切な人が写っている映像や音声を、僕は繰り返し聴ける気がしない。何というか、口が悪い表現なのは重々承知しているが、あれは強烈な呪いになってしまうと思う。

この作品は「女のいない男たち」という小説のタイトルにあるように、妻や恋人に去られてしまった(あるいは去られるかもしれない)男性が主題になっている。その主題を語る中で「(お互いに愛している状態であったはずなのに、)妻が夫以外と不倫をしていた」という重要な要素が含まれており、主人公は劇中で妻の死去と妻に不倫されていた過去に向き合っていくことになるのだが、きっと抽象的に言えば「例えそれがどんなに仲の良い家族であろうとも、他者の心を完全に知ることはできないこと」、「大事な人を亡くした苦しみを背負ってもなお、生き続けなければならないこと」という大切な真実に、傷を抱えたドライバーや演者やチェーホフの戯曲を通して気づいていく物語なのだろう。

「例えそれがどんなに仲の良い家族であろうとも、他者の心を完全に窺い知ることはできない」こと、そして改めて僕が思ったのは、「自分でさえも自分の心を完全に知ることはできない」ということだ。本作では、幼い自分の子供を亡くした後から妻の不倫が始まったとされているが、しかしながら妻はそれが原因で不倫をし始めたのではないかもしれない。更にきっと妻自身も自分がなぜ不倫をしてしまうかを分からなかったのではないかと僕は想像する。人間には言語化できない、そして制御できない部分があり、おそらく僕たちはいつもその部分に悩まされるのだ。その一つの解として、小説の中でみさきが言った「女の人にはそういうところがあるんです」という、ともすれば目の粗い言葉で折り合いをつけていく位が丁度良いではないかと、僕も思っている。

対して、後輩俳優の高槻は「本当に他人を見たいと望むなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います。」と主張する。もちろんこれも一つの解である可能性を内包しているかもしれないが、結局高槻は悲劇に向かう。その悲劇にならう訳ではないが、僕は仕事を通して他者を眺めていると、「自己を見つめること」には行き止まりがあるように感じている。自分をいくら見つめたって、言葉が絡まって解けなくなるだけで、結局迷宮入りしてしまうだけなのではないかと思う。(このことを言及している言葉に最近よく出会うことがある。その一つが、「自己の確立」という呪い|shinshinohara|note、そして自己、自己、自己、自己、意識しすぎ|shinshinohara|note。デカルトなどの哲学を引用して、「自己の確立」という呪いや「自己」への向き合い方のヒントが書いてある。)

僕の現状の考えを通してみれば、自己を見つめても皆空っぽでしかなく、自己はつまり「器」のような存在であり、その「器」がどのような場所にどのような特徴を持って生まれて、その中に何を入れて、どのような傷がついていくか、その変遷こそが自己でしかないと思っていて、きっと高槻は主人公夫妻の「(器の)傷」を感じて、「あの二人は自分とは違って空っぽではない」と錯覚して悲劇に向かってしまったのではないかと感じた。(引き金はパパラッチのトラウマと「空っぽな自己」をスマホで盗み撮りしてくる一般人だった。)

僕が「自己という呪い」から放たれたのはいつだろう、と過去を振り返ってみると、学生時代に読んだ「風の帰る場所」という宮崎駿のインタビュー集で、宮崎駿が庵野秀明の作品に対して「自意識の井戸なんか掘り始めてもね、そんなものはただのカタツムリが貝殻の中をウロウロしてるようなもんでね、先までいったらなにもないってことはもう十分わかってるんですよ。」と評していた言葉に出会ったことがきっかけだったことを思い出した。「自己肯定感」という言葉の呪いが覆う世界の中、もしその幻影に悩まされているとしたら、その必要はない。空疎で矮小な自分を受け入れて、その空っぽな器を育てていくしかないのである。最後にポジショントークをするなれば、「自己分析」なんてものは「占い」くらいで片を付けてしまって、さっさと人生を始めることなのである。少し目の粗い通過儀礼で折り合いをつけていく位が丁度良いではないかと、僕は思っている。

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